メルカリマスターの日常

おしゃれってなんですか?QOLってなんですか?少しずつおしゃれになればいいじゃない。妊婦のキャリア形成についても考えてるので教えてください。

東野圭吾は人間描写界の池上彰(人魚の眠る家のネタバレあり)

東野圭吾といえば、知らない人がいない有名作家だ。

ところで、私は本を読むのが好きだが「ミステリー」があまり好きではない。

この理由から、東野圭吾をあまり手に取ることはない。

というのは、私がミスリードにより、彼をミステリー作家として

認識していたためだ。

ただ、本日その誤解は打ち砕かれた。 

 

人魚の眠る家、をご覧になった方は

よくわかると思うが、彼の人間描写には、

「私にはわからない・・・」と思うことを

「わかるかも」と思わせるところがある。

 

今の私は、

人間描写界の池上彰、彼のことを個人的にはそう呼びたいと思っているほどだ。

 

思えば

私がはじめて、東野圭吾を認識したのは、スペシャルドラマ「手紙」だった。

これは亀梨くんが主人公で、兄が佐藤健太

受刑者と被害者をその家族の視点で描いた作品、

善意というものの恐ろしさを罪を犯すということの意味を、

たんたんと伝える作品で大人ならわかる、社会の現実をも鋭く

正しく伝えるルポ作品だと絶賛したのは数年前だった。 

 

本日、(人魚の眠る家)を見て今一度私に東野圭吾ブームが来た。

 

主題は、脳死した子供の家族の描写である。

 

私は子なし主婦だが、子供が脳死だとか、健康な状態で生まれてこないということは

誰の身にも起こりうることだ。

ただ、自分の身近にたまたま事例がない。

テレビなどで間接的に生活を知ることがあっても

想像すらも難解だ。

 

自分にその悲劇が起こったときに、

自分がどのようにふるまうのか、はなはだ疑問だ。

そして、誰もが見ないように蓋をして生きているように思う。

 

映画では、脳死した子供は、優秀な技術者の研究成果により

笑顔さえも作れる。

 

象徴的なのは、

誕生日のプレゼントを父親が買ってきた日

手を広げて贈り物を抱きしめて、にっこりと笑う

これを研究者の男と母親の手で演出するシーン。

 

子供が自分の意志で動いているのではない、

これは「気持ち悪い」ものに私にも感じられた。

 

母親が、すでに自分の力で動くことのない娘を散歩させたり

話しかける姿は、ある種、宗教的だ、と私は思った。

母親が誤った道に進んでいるとさえ思った。

そして、子供を連れて、兄の入学式に参列する母親。

兄の気持ちがよくわかるゆえ、母親のことは到底理解できなかった。

 

しかし、

母親を奇特扱いする周囲の人々は、限界状態を迎えた母親が脳死した彼女を”殺す”ことを必死に止めるのだった。

彼女はかけつけた警察官を前に

「この娘はすでに脳死で死んでいるのに、殺した私が殺人犯になるのか?

もし私が罪に問われるならこの娘は生きている。それなら喜んで罪を受け入れよう・・・」

 

当事者でないと、

この娘が「死んでいる」か「生きている」か決めることはできない。

口に出すことは容易であっても

その決断に責任を持てない人間は何も批判することはできない。

ということなのだ。

 

もし、あなたの知り合いやあなたがこの母と同じ状況になったなら?

この映画を見る前なら、「その娘は死んでいる。母親の自己満足のためにいかされている、かわいそうな娘」と考えただろう。

私は、母親を奇特な目で見ながら娘を殺すことは許さない傍観者であっただろう。

 

今の私は、

「生きてほしい」人が、娘を「生きている」と言い、信じているならば、娘は「生きている」と私は答えたい。

体さえ失っていても、生きていると信じる人がいれば彼女を支持することが容易にできる。

現に生きていても、母と私は年に1回程度しか会うことがない。

生きて、そこにいるということはそんなに重要でないように思われる。

 

身近に生活をともにする者でない場合には生きている、死んでいるということさえ概念である。

 

生きても死んでもいない、少女をめぐるこの物語により

当事者にほんの少しだけ、近づくことができた。

それこそ、東野圭吾小説の持つ醍醐味だと思う。

 

このストーリーは多くの「もしも私が」が含まれている点が

推せる点だ。

 

ぜひ多くの方に見て拡散していただきたい。